狂信者こそ心に疑念を宿している。

Ryuto(リュート・スマイリー)のブログです。趣味の話とかしたい。

『マトリックス レボリューションズ』はなぜ名作なのか

 今月17日、かのキアヌ・リーヴス出演作にして、一世を風靡した映画シリーズの最新作マトリックス レザレクションズ』が公開される。


www.youtube.com

 あの『マトリックス』の新作が公開されるという事態に、既に尋常でないほど緊張している。具体的に言うと『シン・ゴジラ』の公開前とか『ブレードランナー2049』の公開前くらい緊張している。もしくは、一度完璧な形で完結したにも関わらず続きがつくられるという意味では、劇場版『遊☆戯☆王 THE DARK SIDE OF DIMENSIONS』の公開前くらい緊張している。この例え伝わりづれぇ。ともかく、それくらい僕にとって『マトリックス』という作品は重い。『スター・ウォーズ』や『ブレードランナー』同様、この映画シリーズから受けた(悪)影響は計り知れない。

 早速脱線するが、『マトリックス』が公開された1999年という年の映画はとにかくヤバい映画が多い。単純に面白い映画というより、その後に与えた影響力が激しかったり、問題作だったりするのが多い。具体的にはファイト・クラブとか。あと個人史的にはガメラ3 邪神覚醒『劇場版デジモンアドベンチャーも欠かせないのだが、この辺については機会があればまた書きたいと思う。

 僕は99年当時はまだ小学生で、『マトリックス』もえらく大人の映画に見えて特に映画館で観ようとは思わなかったのだが、4年後の続編連続公開(今でこそそこまで珍しくもないが、続編を短いスパンで連続公開するというのも当時は驚いたなぁ……)タイミングで第一作が地上波放映されたことにより覚醒。本作のファンのご多分に漏れず、スタイリッシュすぎるアクションと映像美、厨二心をくすぐりまくる設定にすっかりやられ、気づけばスピンオフの短編集『アニマトリックス』も含めてシリーズを完走(と言いつつゲームはできなかったけど)し、人生の軸のズレに拍車がかかった。

 いずれにせよ、出来がどうなるとしても『マトリックス レザレクションズ』の公開自体が僕にとっては大事件なのですが、その前にどうしても触れておきたい、もっと言うと名誉を回復させてあげたい作品がある。

 それが前作にして“元”シリーズ完結編マトリックス レボリューションズである。

 


www.youtube.com

 

"Everything That Has a Begining Has an End."

 

 『マトリックス』の続編2作は2003年に連続公開された。5月(日本は6月)公開の第2作『マトリックス リローデッド』に続き、3部作の完結編として2003年11月5日に全世界同一時刻一斉公開(この部分も当時大々的にPRされた記憶)した本作。しかしながらなんというか、世間的な評価はあまり芳しくない。当時、この作品の情報や解説を求めて検索した僕は「暗い」「哲学的な話がつまらない」「『マトリックス』なのに現実世界の話ばかり」ザイオンがダサい」「最終決戦がドラゴンボールなど散々なレビューを見ることになった。

 これらのレビューですが、まぁ、大半はその通りですよ。いや「つまらない」とかの部分は「違うもん!」と反論したいが、感想は人それぞれだし、つまらないと感じたなら仕方ない。

 ただ、僕はこの作品を見て心底感動してしまった。劇場で見た後もDVDを予約して購入し何度も見た。自分で書いた二次創作小説でも(ジャンルが全然違うのに)散々影響を受けている。公開から18年経った今でもそうだ。

 少なくとも僕にとっては『マトリックス レボリューションズ』は映画史に残る名作だ。

 新作の公開が迫る中で、旧作に触れる人も増えているのではないかと思う。Twitterとかでは聞かれてもいないのに何年も「『マトリックス レボリューションズ』は最高。誰に何を言われても大好き」と呟き続けているので、この機会にこの作品の魅力を僕なりにまとめてみたい。なお、本作のストーリーについての真面目な解説はしっかりまとめられている方がたくさんいらっしゃるので(こちらとか)そちらを参照してください。

(以下、結末含むネタバレがあります。18年前の映画なので許してください)

 

終末観がすごい

 映画紹介の時に「タイムリミット・サスペンス」という言葉をよく聞く。いわゆる制限時間が設定されている作品で、あの『コマンドー』でさえ死ぬほど疲れてる人が見つかるまでというタイムリミットは一応設定されている。シュワが強すぎてあまりタイムリミット感はないけども(ちなみに今作のプロデューサーであるジョエル・シルバーは『コマンドー』のプロデューサーでもある)。

 『マトリックス レボリューションズ』もある種のタイムリミット・サスペンスだが、この作品のタイムリミット設定の仕方がすごい。何せ『リローデッド』の序盤の段階からザイオン(人類最後の都市)が攻撃を受けるまで72時間」という説明が入る。連続公開が前提だからだろうが、前作の序盤から既にタイムリミットが設定されている映画は中々ないと思う。それも負けたら即人類滅亡という戦い。『レボリューションズ』の序盤に至っては、攻撃が20時間後に迫っている。とにかく人類側は猶予がない。

 しかもそんな状況なのに、『リローデッド』終盤で「救世主(ネオ)もマトリックス維持のためプログラムで仕組まれた存在でした」「そもそも機械は既に人類を5回滅ぼしてます。今回は6回目です」というどうしようもない真実が明かされる。

 この映画が終始暗い、というのはその通りだと思う。ただ、当時高校生で色んな影響を受けやすかった自分にとってはこの「あと一日弱で人類滅亡」「救世主も仕組まれた存在」という追い詰められっぷりにすっかりやられてしまった。

 

マシン側の都合が分かる

 そんなどん詰まりの状況で始まる『レボリューションズ』だが、序盤は結構なスロースタートである。何せネオが囚われの身になっていて、その救出作戦から話が始まるからだ。ある意味、本題のはずの機械との戦争から少しわき道に逸れてしまう(この辺、ソロをジャバ・ザ・ハットから救い出すところから話が始まる『ジェダイの帰還』っぽいとも思う)。

 このため、映画の序盤はネオはほぼ活躍せず、会話シーンが続く。多分、この映画のテーマ的な部分に興味ない人には辛い。モーフィアス・トリニティー・セラフとメロビンジアン勢の戦闘があるので、ドンパチが全くないわけではないのだが。

 ネオはメロビンジアンの手下であるトレインマンが支配する地下鉄の駅に閉じ込められ、そこでラーマ一家と出会う。ラーマは発電所のリサイクル部門(マシン側の発電所のリサイクルって、つまり……)で働くプログラムで、妻のカマラ、娘のサティーがいる。ラーマは目的のないプログラム(=マトリックス側に不要なものとして削除される危険がある)であるサティーを救うためにそこにおり、「娘を愛している」と言う。驚くネオ。

 初見だとかなり何のこっちゃな会話だが、『マトリックス』というシリーズ全体でみるとかなり重要なシーンだ。これまで、このシリーズでの機械側は絶対的な悪役だった。ところが、今作では家族を持ち、愛を理解し、「娘を守りたい」と話す一般プログラムが出てくる。しかもラーマは囚われたネオを哀れに思い、地下鉄の駅から脱出させようと手助けすらしてくれる(結局失敗してしまうが)。預言者やキーメイカーのように元々人類側に友好的なプログラムと違い、ラーマには人類側を助ける理由は別にない。ただただ善意で助けようとしてくれる。

 ここに来て、ネオにも観客にも、結局、人間と機械って何も変わらないんじゃないか? という、『ブレードランナー』のような疑問が浮かんでくる。そしてこの機械側の新たな一面は、この作品のラストで大いに生きてくる。

 

悲壮感が半端ないザイオン防衛戦

 まぁしかし、相手の事情を理解したところで戦争は止まってくれない。掘削機でガンガン地面を掘り進める機械軍はついに地下のザイオンに到達する。機械軍の戦力はセンティネル25万体ザイオンの人口と同じ数のキモ怖い殺人兵器が迫ってくる。

 対する人類軍の主力は戦闘兵器APU。『エイリアン2』のパワーローダーが両腕にキャノンを装備したような姿で、無骨でめっちゃカッコいい。これが100機。250,000VS100。人類側には固定砲台や歩兵(志願兵含む)もいるが、どう考えても絶望的な本土決戦だ。

 しかもこのAPU、なぜかコックピットが剥き出しなのだ。近接武器(触手)で攻撃してくるセンティネルが敵なのに、なぜこんな設計にしてしまったのか(当時のレビューで「機械VS人類の戦いであることを強調するためにこういうデザインにしたのでは」という考察を見たことがある)。設定だと『アニマトリックス』の『セカンド・ルネッサンス パートⅡ』に出てきた歩行兵器がAPUの初期型っぽいのだが、そっちはちゃんと装甲に覆われていたのに。

 また、APUが使用するのはレーザーとかではなく実弾なので、(こういうSF映画では珍しく)専門の補給部隊がいて、装填シーンもある……のだが、これがまた怖い。補給部隊はAPUドライバーの「装てーん!」という指示を聞くと、センティネルがうじゃうじゃいるドック内を駆け、APUまで弾薬を運ぶ。台車で。APU到着までにセンティネルに襲われたらひとたまりもないし、そもそも映像を観る限り装填した後にこの人たちが逃げる方法が用意されていない。リアルといえばリアルなんだろうが、特攻任務過ぎて可哀想になってくる。ある意味、映画史に残る恐ろしい補給シーンだと思う。

 この絶望的な戦いでAPU部隊の指揮を執るのが我らがミフネ隊長である。戦闘前は「どうせ死ぬなら機械どもに思い知らせてから死のう!」ぶっきらぼうに演説して士気を上げ、機械軍がザイオンに侵入してからは鬼神のごとき雄叫びとともにキャノンをぶっ放し、銃弾の雨を降らせる。マトリックス』のスタイリッシュなイメージとは真逆の泥臭い戦闘シーンだが、前半で戦闘シーンが少ないと感じた人はとにかくこの場面までは見てほしい。アドレナリンを過剰に放出しながら熱演したナサニエル・リーズ氏はある意味本作で一番株を上げた人物だと思う。

↑5000兆円手に入ったら欲しい。

 

スミスが怖い

 ダース・ヴェイダー然り、イモータン・ジョー然り、名作には印象的な悪役が欠かせないが、その点では本シリーズのエージェント・スミス5億点満点と言うしかない。正確に言うと2作目以降ではエージェントではなくなっているので単にスミス、いちスミスだけど。

 1作目での死亡後、エグザイルとなり自分をコピー(他人への上書き)する能力を得たスミスだが、前作『リローデッド』では人海戦術でネオに挑んでたり、自分のネクタイを自分に直させて「ありがとう」「どういたしまして」という斬新な独り芝居をやったり、悪役なのに妙な笑いを終始振りまいていた。

 が、スミスはいつだって本気だ。本作ではいよいよマトリックス全体を侵食し、機械でも制御不可能な存在となる。第一作で人類を「ウィルス、病原体」と表現した彼が、マトリックスにとってのウィルスそのものになり果ててしまった。これまではマトリックス内にあって絶対的な安全地帯だと思われていた預言者のアパートにまで殴り込み、ついに預言者まで乗っ取る。

 このシーンが怖い。そこまでの場面で、スミスはいくら自分を増やしても、そこに増えるのは「同じ自分」だった。ところがこのシーンで、アーキテクトが言うところの「マトリックスの母」を乗っ取ったスミスが誕生すると、他のスミスは動揺したような様子を見せる。そしてサングラスを外し、(おそらく彼にしか見えていない)何かを凝視して笑いだす預言者スミス。

 今まで増えてたのは同じスミスだったのに、このスミスは今までのスミスと違う。

 このシーンはヒューゴ・ウィーヴィングの狂気的な演技も相俟って、どこかコミカルだった悪役が本当のラスボスに変化した素晴らしい瞬間だと思う。

 『マトリックス レザレクションズ』では、ヒューゴ・ウィーヴィングに代わってジョナサン・グロフがスミスを演じるらしい。ヒューゴのあの名演の後にスミス役をやるのはかなり荷が重そうな気がするが、予告編でネオ相手にどや顔で語ってる姿には確かにスミスの片鱗を感じるので期待したい。

 

 

ネオがかわいそう

 翻って主人公だが、本作のネオは終始かわいそうとしか言いようがない。

 元々、丹精な顔立ちにつぶらな瞳のキアヌは理不尽な目に合う被虐の英雄の役が似合うとは思うが(『ジョン・ウィック』だってそういうシリーズだ)、本作のネオはさすがに度を越している。人類を救おうとする彼は本当にイエス・キリストみたいな目に合う。

 先述した冒頭の閉じ込められ展開は序の口で、中盤にはスミスに乗っ取られたベインとの戦闘で両目を失う。これはかなりショッキングなシーンで、初見時はビックリした。予告編で目隠しみたいなことしてた理由はこれか! と納得はいったが、それ以上に痛そうだった。

 さらに終盤、いよいよマシン・シティに到着したという段階で、今度は最愛の人を失う。さっきのは肉体的に痛そうだったが、今度は精神的に辛い。この後、ネオは単身マシン・シティ内に乗り込むが、全てを失い、帰れる見込みもゼロという状況でそこまで頑張る姿は泣けるというより、ひたすら「か、かわいそう……」と思えてならない。なんでそこまで頑張れるんだよネオ。いくらなんでも自分だったらもう人類とかどうでもいいやって不貞寝するよ絶対。

 同時期に公開した映画で指輪を火山に捨てにいった人もいたが、あっちは指を失ったくらいで帰還できてたし、仲間もだいたい助かっていた(ショーン・ビーン……)。向こうはアカデミー作品賞を獲った偉大な作品だけど、こと代償の大きさで言えばネオはフロドにも全然勝っていると思う。

 

一瞬だけ映し出される美しい空

 ネオとトリニティーがマシン・シティへ突入する直前、二人は機械軍の防衛線(万里の長城ばりに長い砲台が凄まじい数の爆弾を発射してくる)を突破するため、ホバークラフトのロゴス号で上昇、分厚い雲を抜ける。そこで見えたのは絵画のような美しい空、そして太陽だった。思わず「きれい……」と呟くトリニティー

 終始暗い映像が続く本作の中で、極僅かに描かれる明るいシーンがこれである(唯一と言わないのは、ラストカットも同じくらい美しいから)。ほぼずっと休みなしで緊迫感が続く後半戦において、ほんの一瞬の息抜きシーンでもある。絶望的で悲惨な展開が続く分、この場面の空の美しさはめちゃくちゃ印象に残る。

 前史である『セカンド・ルネッサンス』で現実世界の地球が(人類のせいで)暗い雲に覆われて以降、シリーズにおいて現実世界の青空が描かれるのはこのシーンだけだ。空が破壊されたのは数百年も前の話なので、この時代に生存している人間で肉眼で青空を見たのはトリニティーただひとりということになる。それを踏まえてこのシーンを見ると、また思わずグッときてしまう。

 

シン・シティの中枢、そして最終決戦へ

 散々悲惨な目に遭いつつ、それでもネオの決意は揺るがず、マシン・シティの中枢に潜入する。明かりもなく、冷たくて硬そうなケーブルで覆われたマシン・シティ内部はこの世の袋小路みたいな景観だが、視力を失ったネオにはエネルギーが満ちた光の街が見える。この現実とは思えない光景が、ネオが最後に辿り着いた世界かと思うと何とも言えない気持ちになる。

 ネオはマシン・シティの支配者、機械の親玉でもあるデウス・エクス・マキナと、人類の代表として対話する。ところで、あなたのデウス・エクス・マキナはどこから? 私はマトリックスから。機械仕掛けの神」ってすげー言葉があるんだな! かっけー! と本作を見た後調べて思った。

 人類は機械からの解放を求めてずっと戦ってきたのだから、普通の物語ならこの機械の神はラスボスになることだろう。しかし本作は違う。ネオは「スミスはもうお前では制御不能だ。でも自分なら止められる。その代わりに平和が欲しい」と交渉を持ちかける。デウス・エクス・マキナはこの取り引きを了承し、マトリックスへの侵入プラグを用意するとともに、ザイオンの最深部まで到達したセンティネルの侵攻を停止する。ネオは人類と機械両方の未来を賭けてスミスとの決闘に挑む。

 鳥肌が立つようなアツ展開だ。何世紀も続く戦争を終わらせるため、人類を救うため、これまで敵だった相手と手を組み、マトリックス=世界がバランスを取るために生み出したマイナスの自分と戦う。セットアップが完璧すぎる。そしてこの作品の白眉とも言える大雨の中の最終決戦が始まる。

 めちゃくちゃ壮大な劇伴とともに、大雨のビル街を歩くネオ。その周囲には整列したスミス軍団。あまりに増え過ぎて、どこまでスミスの列が続いているのかも分からない。というかビル街の窓にも並んでるスミスが見える。ネオを待って整列している時のスミスたちはどんな気分だったのだろう。やっぱ前の方の列は争奪戦になって、スミス同士でじゃんけん大会とか開かれてたのだろうか。でも全員同じスミスだし、そのじゃんけんもひたすらあいこが続きそうだ。

 スミスたちはもう物量戦は仕掛けない。その代わり、列の中から一人のスミスが現れる。預言者を乗っ取って生まれたあのスミスだ。

"Mr. Anderson, welcome back. We missed you. "

 単なる敵意だけではない、アンダーソン君への色んなクソデカ感情が詰まりに詰まったスミス渾身の「おかえり」である。ヒューゴによるねっとりとした言い方も相俟って、何度でも真似したくなる名台詞だ。全然関係ないけど大学の頃、この台詞をほとんど無意識で口走ったら同じ学年の女子にマトリックスの台詞だとちゃんと伝わってびっくりしたことがある。

 さながら西部劇のように対峙するふたりは、やがて徒手空拳で激しい戦闘を繰り広げる。路上での戦いはビルの中へ、そして更に空中での戦いに発展する。マトリックス内で定められた限界を超えた能力を有する二人なので、当たり前のように宙を舞うし、物理法則を無視した動きをするし、雨は何かの波動みたいに飛び散る。よく「ドラゴンボールみたい」と呼ばれるのは主にこれが原因だと思うのだが、実際ふたりとも人間やマシンの限界を超えているのだからそうなっても仕方ないと思う。

 戦闘中、ふたりは時折会話を交わす。いや、あんまり交わしてはいない。基本的にスミスがべらべら喋りまくる。預言者を乗っ取ったことで"未来が視える"ようになったらしいスミスは、己の勝利を確信しているので、とにかくドヤる。対照的にネオはほとんど言葉を発さず、むしろ言葉は不要とばかり第一作の地下鉄での戦いのように手で相手を挑発する。しかし、互角に見えた戦いはやがてスミスの勝利に終わる。

 えぇ!? 負けちゃった! 絶対に負けられない戦いだったのに! アスファルトの道路を陥没させ、泥に塗れて這いつくばるネオ。その姿を見つめながらまた持論をべらべらと話すスミス。

「なぜだアンダーソン君。なぜ。なぜ立ち上がり戦い続けようとする?」

「それは愛のためか? 愛はマトリックスと同じ虚構に過ぎない。つまらん愛など作り出せるのは人間だけだがな」

 だがネオは、あるいはこのシリーズをここまで見た方なら、このスミスの発言が間違っていることは分かるはずだ。機械にも愛は生み出せる。プログラムであるラーマが娘のサティーを救おうとしたように。

「自分で選んだからだ」

 ネオの解答はこれまたシンプルだった。思えば彼は第一作の序盤で、これまでの生活に戻る青い薬ではなく”ウサギの穴の深くにまで潜っていける”赤い薬を選んで飲んでいた。第二作でも、預言者やアーキテクトとの会話で「選択」は常にキーワードだった。既にネオは自分の選択を終えている。対してスミスは戦いの結果は知っているが、その意味は理解していない。

 フラフラになりながらもまた立ち上がり渾身の一撃を放つネオ。この場面には最早、第一作のようなスタイリッシュさはない。双方泥に塗れて殴り合うだけだ。しかし、スタイリッシュなアクションを売りにしてたシリーズが最後に泥臭い戦いで決着をつけるってアツくない? 僕は激アツだと思います。

 最終的にスミスはネオの身体を乗っ取る。念願の宿敵を倒し、ようやく安堵したような表情を浮かべるスミス。だが次の瞬間、スミスたちの身体は光り輝き崩壊する。この場面で起きた出来事については劇中説明されない。ネットの考察でよく見かけるのは、自分と対極の存在であるネオを乗っ取り自己矛盾を起こしたためとか、ネオと合体したことで共闘しているデウス・エクス・マキナと繋がり削除されたとかだ(劇中の描写を見る限り、個人的には後者の説を推したい)。

 重要なのは、ネオの犠牲によりスミスが滅び、協定通り機械との戦争が終わったことだ。ネオは救世主として本当に世界を救った。歓喜するザイオン市民。倒れたネオをマシン・シティの奥地(まばゆい光の中)に運んでいく機械。ネオは死んだのだろうか?

 本作は預言者とサティーの会話で終わる。サティーはネオのために、マトリックスの空へ虹をかける。サティー「ネオにまた会える?」という質問に「会えるかもしれない。いつかね」と答える預言者。ちなみにこの三部作ではマトリックス内の映像は緑色のエフェクトがかかっているが、このシーンは三部作で唯一、その緑色のエフェクトがかかっていない、らしい(どこで読んだ情報だったか忘れてしまった……)。戦争が終わり、マトリックス内が新たなバージョンに入ったということを映像だけで読み取れるラストだ。ここだけでまた泣ける。

 

エンドクレジット

 本編の話が終わったのだが、ごめん、エンドロールの話もさせて欲しい。エンドクレジットでかかるNAVRAS(ナヴラス)」という曲だ。

 本作のサントラはドン・デイヴィス(オーケストラ担当)とテクノユニットのジュノ・リアクター(デジタルサウンド担当)が中心となり製作されている。しかし本作のサントラ中、この曲だけアーティスト名がJUNO REACTOR VS. DON DAVIS」。わざわざVSと付けてくるあたりに作り手側の本気っぷりが籠められている。

Navras

Navras

  • provided courtesy of iTunes

 曲自体はクライマックスのネオVSスミスで流れる「NEODAMMERUNG(ネオダメラング)」という曲のメロディが使われているが、何せエンドクレジット曲なので9分もある。その9分の中にオーケストラ、テクノサウンドサンスクリット語のコーラス、そして曲の後半ではインディアンフルート(最近まで尺八だと思ってた)まで流れてくる。「サンスクリット語のコーラスって何やねん」と思われる方は『ファントム・メナス』のクワイ・ガン&オビ・ワンVSダース・モール戦で流れる「運命の戦い」を思い出してください。あのシーンで流れてくるやたら荘厳なアレです。

 

 ちなみにwikipediaのサンスクリット語の項目にもこの2曲のことは書かれている。

 これだけの要素を全部一曲にブッ込んだ結果、次郎系中二病みたいなことになってしまっている。むやみやたらに壮大な音を鳴らしながら9分間が終わる。マトリックスファンの多くがこのエンディングで「一作目はレイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、二作目はロブ・ゾンビだったのに何で最後だけ劇伴曲で締めるんだよ!」と思ったことは想像に難くない。が、本編の内容が二郎系みたいな映画なので、エンディングはこれでいいと思うのだ。映画館ならいざ知らず、普段自宅で映画を見る時はエンドクレジットは飛ばしてしまうのに、この作品だけは毎回(MCUみたいにオマケ映像がつくわけでもないのに)エンドクレジットを最後まで見てしまう。

 

『レザレクションズ』に向けて

 ようやくまとめの項目まで来たが、「ここすき」「ここもすき」「ぜんぶすき」と半ば脳死状態で書き続けた結果、どうまとめればいいか全く分からなくなってしまった。

 どうして世間一般ではそんなに評判が良くないこの作品がここまで好きなのだろう。多分、『マトリックス』一作目のようにもっとスタイリッシュなカッコ良さを追求した映画なら、もっと世間のウケも良かったと思う。だがもしかすると僕は、その何もかも過剰な感じに惹かれているのかもしれない。スタイリッシュをかなぐり捨ててまでも投入されたギリギリ感溢れるセットアップとオタク心(宗教的要素含む)、そして何より「絶対に『マトリックス』を壮大に完結させるんや!!!」という偏執的とすら言える作り手の心意気。思い込みかも知れないが、そんなトゥーマッチな何かが感じられてしまって、18年経ってもこの作品は僕の心から離れない。

 最新作『レザレクションズ』は、第一作目『マトリックス』から繋がる作品だと宣伝では紹介されている。この話を聴いた時、「最近のターミネーターのように続編を無かった事にする気か?」と正直少しだけ動揺した。が、どうもそうではないらしい。

 予告編でネオの眼の再生(?)など明らかに『レボリューションズ』後を意識しているような描写がある(最近公開された本予告に至っては思いっきり『リローデッド』『レボリューションズ』の映像が使われている)し、キャストにはジェイダ・ピンケット・スミス(ナイオビ)やダニエル・バーンハード(エージェント・ジョンソン)、ランベール・ウィルソン(メロビンジアン)など、『リローデッド』から登場した面子がクレジットされている。その上、予告編に登場した女性(冒頭に貼った予告編の1:00頃に登場)が『レボリューションズ』のサティーではないかと噂されていたが、後に本当にサティーが登場することが明らかになった。

 しかし、そうなると「『レボリューションズ』の続きなんてどうやって作るの?」という、最初に抱いた疑問が再び浮かんでくる。前述した通り、『レボリューションズ』は戦争の終結という形でこれ以上ないくらい完璧に物語を終わらせているし、ネオとトリニティーは帰らぬ人となっている(少なくともそのように見える)。

 モーフィアス役がローレンス・フィッシュバーンからヤーヤ・アブドゥル=マティーンII世へ代わっているのも謎だ。報道を見る限り、スミス役は一度ヒューゴにオファーされていたが(スケジュールの都合により降板)、ローレンスには元々オファーが無かったらしいので、キャスト変更にストーリー上の意味があるのはまず間違いない。

 果たして『レボリューションズ』から18年経ってどんな話を出してくるのか、『レボリューションズ』はどんな扱いになっているのか、何より上がりまくってるハードルを超えられるのか。本当にネオはレザレクション(復活)するのか。

 『レボリューションズ』で完結した物語の続きをまた観られるなんて思っていなかったし、不安じゃないかと言われれば今も不安だ。でも『レボリューションズ』の最後にサティー預言者は「ネオにまた会える?」「会えるかもしれない。いつかね」という会話を交わしていた。思春期に影響を受けまくったヒーローにまた会えるのだ。だったら会いに行かない理由はない。

 巨大な期待と不安が入り混じるクソデカ感情を抱え、来週は映画館に向かいたい。そして彼に心の中でこう伝えるんだ。

 

"Mr. Anderson, welcome back. I missed you. "

 


www.youtube.com

 

(オマケ)

f:id:ryutosmiley:20211212235853j:image

↑公開当時に買ったパンフレット。なんとB4版。デカすぎて本棚に入らない。